一生暇人セルシト日記

音楽とらびちゃんを愛する、大学生の雑多な備忘録

「彼女」を考察する。〈形式は目的となり得るか?〉

 

こんにちは、セルシトです。

 

申し訳ないのですが、後半の「彼女」への考察と深く関わるので、1000文字ほど「彼女」ではなく初詣の話にお付き合いいただけると幸いです。

 

「彼女」というワードで釣られてしまった関係者各位には、この場を借りてお詫び申し上げます。めんごめんご。

 

 

 

 

 

さて、年末年始に父の実家へ帰省したときに、朝のテレビで「初詣のやり方」というようなことを特集していました。

 

その番組で紹介されていた作法の一部を上げると以下の通り。

 

・近くの神社の神様はいつも見守ってくれているので、遠くの大きい神社より小さくても近くの神社に行った方がいい

・神様は夕方までしかいないので、午後5時までに参拝すべき

・65円は賽銭の額としては良くない(「ロクなご縁」という語呂)

 

なるほど、そうなのか。

 

 

 

 

 

 

へえー。

 

 

 

 

 

 

ふーん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はあああああああーーーーーーーーーーーうでもいいーーーーーーーーーーーーー。

 

 

 

 

 

 

神道を信仰している方々には申し訳ないですが、なんだこの毒にも薬にもならないクソみたいな情報は。こんなくだらないことを紹介するテレビを、一体どういう気持ちで見ればいいのでしょうか。

 

まあこれを見て色々思うところはありますが、とりあえず伝えたいのは、あまりにも形式にこだわりすぎではないかということです。

 

だって、「正しい参拝方法」なんか知ってどうなるっていうんですか。

 

上記のような正しい参拝方法を踏まえれば、願いが叶いやすくなるんですか??願ったことを達成しようという気持ちが強くなりますか??目標の達成に一歩でも近づくんですか???

 

そう、目標。この初詣の例では願い事と言ってもひとまずは差し支えないかなと思いますが、僕らが冬真っ盛りの年始にわざわざ神社に行くのは本来願い事をするためであって、じゃあなぜ願い事をするのかというと、何か達成したい目標なり目的なりがあるからではありませんか?

 

タイトルにもある言葉を借りれば、初詣は何らかの目的を達成する、もしくは達成しやすくするためのものとしてあるべきで、もっと普遍的に言えば「形式はあくまで何らかの目的を達成するために存在すべきで、形式自体が目的になるべきではない」と思うんですね。

 

僕は、この初詣という形式を踏む一番の目的を「今年1年でこの目標を達成しよう」という気持ちを(再)認識し、決意を固めたり強めたりすることだと考えます。

 

そして、あくまでそれが初詣をする目的であるべきで、賽銭の語呂を気にしたり夕方5時までに参拝をすることが目的となっては、物事の重要なことを取り違えてしまい、まさしく本末転倒になるのではないでしょうか。(もちろん、それらを意識することで初詣本来の目的を達せられるのなら喜んでやりますが)

 

 

 

 

はい、すいません。のっけから「彼女」ではなく初詣について喋ってしまいました。しかしここから「彼女」の出番です。

 

先ほど言った、この 

 

形式はあくまで何らかの目的を達成するために存在すべきで、形式自体が目的になるべきではない

 

という文言。僕はこれが「彼女」にも当てはまるのではないかと考えます。

 

気がつくと、僕の周りには「彼氏」とか「彼女」とかいう関係の人間を持つ人であふれていました。いわゆる「付き合っている」というやつですね。

 

しかし僕は考えてしまいます。いいなと思った人に「付き合ってください」と言い、相手の方が「いいよ」と言う。まあ恐らくこの瞬間から「交際」という状態が始まるのだと思いますが、さあ、この交際という状態が始まる前と始まった後、何が変わるのでしょうか。

 

交際を始めたからと言って、相手が他の人を全く見ず自分だけを思ってくれる保障はあるのでしょうか。交際という状態が始まった瞬間に、2人の愛し合う気持ちが一気に膨れ上がるのでしょうか。(気になっていた異性を手に入れると急に冷める、という一般的な恋愛論とはまた別の話です。なんというか、仕組み的に、みたいな?)

 

僕にはどうも、交際関係にある方々はこの「付き合う」という状態に依存しているように思えます。というのも、互いの間で交際を宣言することで相手の女性をその「彼女」という型、つまり一種の形式にはめこんでいるんじゃないですか?

 

先ほど、初詣の話でもいった通り、

 

形式はあくまで何らかの目的を達成するために存在すべきで、形式自体が目的になるべきではない

 

というわけなので、やはり「彼女」という形式も何らかの目的のために存在すべきものであり、その形式自体に対する依存というのも本来あるべき姿ではないと思います。

 

さしずめ「彼女」(もしくは「彼氏」)という一種の型にはめることで自分のもとから離れる不安を排除して安心感が生まれる、というところなのでしょうか。あとは、「彼女」ないしは「彼氏」がいることがステータス・・・みたいな感じですかね。いまいち経験が少ないので、的外れだったらすいません。

 

もちろん、この人が大好き!!という純粋な感情で交際をする人もいらっしゃると思います。

 

 

しかし、先ほどから申し上げている

 

形式はあくまで何らかの目的を達成するために存在すべきで、形式自体が目的になるべきではない

 

この文言は紛れもなく僕の伝えたいことですが、僕これ以上に言いたいことがあります。それは、「目的を達成することが大切なのであり、形式はその補助要員に過ぎない」ということです。

 

もっと踏み込めば、目的が達成できるのなら余計な形式は必要ないとも思っています。

 

先ほどから申し上げているように、互いの気持ちがまだ00%は確かめ合えないからその「彼女」「彼氏」という形式をそれぞれが用いることで交際関係(いわゆる「付き合っている」)という状態を作り上げているのであり、何の疑いもなくお互いが愛し合っているという事実が確認できるのであれば、これらの形式やら型やらは全く必要ないのではないでしょうか。

 

しかしながら、多分それらの形式抜きで互いの気持ちを確かめあうなどという芸当が到底できないからこそ、彼氏、彼女などといった形式が存在するのでしょう。似たようなものでは結婚なんかもその一種でしょうか・・・?

 

人間、絶対安心なものなんて、まーーーーーーーーーー手に入らないんじゃないんですか??あらゆることは疑ったらキリがないですし。「彼女」「彼氏」「夫婦」といった形式は、その不安を少しでも和らげるためにあるとは思いますが、それでも絶対安心なものではないはず。

 

 

ここまであれこれと書いてきましたが、とどのつまり僕らは形式とどう向き合えばいいんですかね。形式の有無による不安に対してどう対処すればいいのでしょうかね。

 

僕から言うことは1つ。ここで僕が何か天才的でかつ画期的なアイデアを提示することは不可能ですが、みなさんには僕がここで書いたことを基に、改めて自分の周りにある形式について考えてみてほしいです。

 

自分の身の回りにある形式にはどんな目的があるのか、その目的は達成されているのか、自分は形式しか見ていたりしないだろうか。そういったことを考えたうえで、それらの形式との付き合い方を再考してみてはいかがでしょうか。

 

 

(僕個人としては、形式にはハマりすぎず常に不安と付き合っていかなくてはならないのかな~と思ったりもします。人間の環境において不安定であることは当たり前だと、常にそう考えていくべきなのかなとも思います。カレピッピとか言って嫌な現実から逃げるのもアリなのかも・・・??)

 

 

それでは最後になりますが、ここまで読んでいただきありがとうございました。DMでもコメントでもなんでもいいので皆様の意見も聞かせてください。よろしくお願いします。

 

 

 

〈続編〉

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