りゅうちゃん(ex.セルシト)の日記

元ロン毛大学生の、雑多な備忘録

もう二度と人を嫌いにならないと決めた

僕の人生で最も性根が腐っていたのは小6、最も自分の殻に閉じこもっていたのは中3の時でした。

 

 

まず小6。この頃は同級生への陰口オンパレードでしたね。陰で読んでいたあだ名なんかもなかなかひどかったです。悪口も個人の尊厳を踏みにじるレベルだったかもしれません。

 

下校中は周りの友人と一緒に陰で同級生をからかったり悪口をいったり、そんなことに明け暮れたこともありました。それで先生にバレそうになると「僕は関係ない」と全力で否定。

 

成れの果てには、クラスで隣の席になった人への悪口も言い続けていました。ある時それがばれて(多分前々から気付いていた)、ついに机を離された時には背筋が凍りました。さんざん人には陰口を叩いておいて、いざ人から少しでも拒絶されると顔面真っ青。「人に嫌われてしまった」「陰口をたたいていたことがクラスの人たちにばれる!!」って。最低の人間ですよね。

 

 

それから中3。今度は僕が人に悪く言われる番でした。一部のクラスメイトには何かと威圧的な態度を取られたり、授業の時も名指しはされないものの、僕のことについてであろう悪口を教室の後ろから言われたりしていました。因果応報ってやつですね。

 

この時はもうひたすら耐えて、受験勉強に没頭するしかありませんでした。学校で授業を受けるたびに、「今日は何も言われないといいな」「とにかくこんな嫌な中学校から早く卒業したい」と結構本気考えていました。正直塾の方がずっと居心地がよかったです。授業や宿題はきつかったけど、塾の人たちとも仲良くなれて本当に楽しかった。

夏休み明けにあった担任の先生との面談でも「お前、なんか顔明るくなったな」と言われたほどです。多分クラスの人たちと会わなかったからですね。

 

これは完全に余談ですが、生徒会室でも同期や後輩に仕事を押し付けて勉強していたこともありました。この素晴らしい役員たちがいなければ、僕は生徒会の仕事に忙殺されて受験勉強どころではなかったと思います。彼らには本当に感謝しています。ごはんおごってもいいぐらいですね。本当にありがとうございました。

 

 

 

とまあ完全に病んでいる感じの思い出話になってしまいましたが、これを踏まえて記事のタイトルについてです。

 

 

 

僕は今後、二度と人を嫌いにならないと決めました。

 

 

 

人生で唯一、自分で決意してから守り続けている誓いです。なんとか死守しています。どれくらいかというと、本当に頭に来ることがあっても部屋で布団をベッドに叩きつけまくったりして、とにかく相手を嫌いにはならないようにはするぐらいです。中高の時に数回やりましたね。むやみに人にあたるよりは物にあたったほうがマシじゃないですか・・・?布団なら壊れたりもしないし。

(もちろん面と向かって言わなきゃいけない時もありますが、常にそうだと限らないのは皆さんもよく知っていると思います)

 

 

小6で人をさんざん蔑み中3で人に蔑まれた僕は、「人を嫌う」という行為をそれなりに重い程度(結局は自分基準ですが)で体験しました。

 

上記に書いたこと以外で言えば、小6の時に給食の班で僕が発話しても班の人たち全く反応してくれないことがありました。なぜだろうと考えましたが、実は先ほど書いた僕が陰口を叩いていた人が同じ班にいて、その人が彼らに箝口令を敷いたのかなあと思っています。誰かに直接確認したわけではないのであくまで推測ですが。

 

 

ただ、そんな出来事から僕は「人に悪いことをしたら仕返しされるんだ」と当たり前のことをやっと学びました。だからこそ、こんなことをされてもまた僕がやり返すことはなかったし、友人と陰口を叩いたりしたこともありませんでした。

うーん、まあ僕は臆病者で仕返しをするだけの度胸がなかったとも取れますが。

 

中3の時にも人に嫌われるということを身をもって体感しましたし、今でも自分の不本意な形では人に嫌われたくないと思っています。だから、別に僕のブログを見て「こいつ無理だわ」と思ってもらうぶんには一向に構いません。それは仕方ない。事実ツイッターのフォロワーも減っていますし。着々と選別が行われています。

 

 

それに、僕を嫌っている人と同じ空間にいるというだけですごく嫌な気分になるんですよね。中3の僕はそのせいでクラスの教室にいるときは自分の殻に閉じこもっていたし、彼らの目を気にしながら学校生活を送っていたのも事実です。

 

なので、今でも自分の不本意な形では(大事なことなので2回言いました)人には嫌われないように、極力物腰柔らかく人に接するようにしています。あとついつい調子に乗っちゃう癖とかも相当抑えてます。(特に顔見知りと話すときは)

 

 

それから、僕は上記のことを含めて人を嫌いになるメリットは皆無だと思っています。

 

だって「ここが嫌だ」と言って人を嫌いになったら、その人の良いところまで見失いそうじゃないですか?

 

確かに僕だってこの人のここが嫌だな~って思うことはありますよ。あの人は咀嚼音がうるさいし、あの人はラインで質問を質問で返すし、あの人はすぐ下ネタに走るし、あの人は発言するときにいちいち威圧的だし・・・・

 

嫌だな~の程度は違えど人の苦手なところはキリがないですが、とにかく僕はそれを理由に人を嫌いになることだけは避けています。実際、上に挙げた人たち全員いいなと思うところはありますし、少なくとも嫌いではありません。まあ好きでもない人もいますが。

 

要するに、その人を嫌いになるということはその人を全否定することに等しいと、これが一番言いたいことですかね。逆に言えば、その人を全否定していない限り、まだどこか長所を見出している限りは完全に嫌いになったというわけではない気がします。

 

 

しかしここで1つ誤解してほしくないのは、僕は「すべての人間を平等に愛するべき」というつもりは毛頭ありません。関わりを持ちたくない相手は避けてしまってもいいのかなと思います。対応するにしても軽くあしらう程度でいいんじゃないですかね。自分の心に嘘をついて人と交流するのってすごく疲れますし、精神衛生的にも嫌な人やものは避けれるなら避けてもいいと思います。僕の場合は少々避けすぎている気もしますが。

 

 

ただとにかく、その人のすべてを拒絶するような真似はやめて欲しいと、そう願っているのです。

その人の嫌なところは確かにあるとしても、そこだけで相手のすべてを判断するべきなのかなあ、と考えています。

 

また話が少しそれるのですが、恐らくこの何か一部分だけでこの人無理だとなってしまうのが、いわゆる「生理的に無理」というやつではないでしょうか。これを「嫌い」と同列にとらえるべきかどうか。僕はこれを「無関心」に近いと考えます。「生理的に無理」も「無関心」も、相手を100%で拒絶している点では共通していると思うので。「嫌い」はなんか相手を一度は見たうえで言っている気がしませんか?誰かのことを「嫌い」と言うときは何かしらその人の欠点を思い浮かべて言う、みたいな。

 

 

好きの反対は無関心、とはよく言ったものですね。

 

 

ということでつらつらと書き綴りましたが、とにかく「嫌い」以外のワードはいくらでも使っていいので、「この人嫌いだ」とだけはならないようにしてもいいんじゃないかなと思います。自分の心に余裕があればでも結構ですので。(ただ僕の場合は先に人を嫌いにならないことを実践した結果、他者に対して寛容になって心に余裕が生まれた気がします)

 

 

それでは、若干まとまりが悪い気もしますが、ここで失礼します。